いじめを苦に1人の女子中学生が命を絶った。
彼女が通っていたのは、長い歴史をもつ名門校。
歪んで見える教室に集められたのは、いじめに関わったとされる子どもたちの保護者。
「親の顔が見たい」大人チームを観た。
残された遺書が1通、1通と、届くたびにいじめの壮絶さが明かされていく。
「うちの子に限って」という親たちは事実を歪めてまでも、そんな惨いことを自分の子どもがするはずはないと訴える。工作までしようとする。
いじめを受けた少女はもちろん、いじめをした側の少女たちの姿はそこにはない。
大人たちの会話の連なりの中から次第に、変化が訪れる。
このあたりは「12人の怒れる男」に通じるところがあるだろう。
いじめからの自死という、起きてしまったことは、絶対になかったことにはできない。
死を選んだ少女以外、すべての人はその起きてしまったあとの世界を生き続けなければならないのだ。
この場にいる人たちは何かしらを失ってしまっていると思う。
母が大事なわが子を失ったのはもちろんのこと、いじめをした側の親は、それまでの出来が良かったり、活発だったりする可愛い普通の娘を失ってしまった。でも、その違ってしまった子どもと親たちは向き合わなければならないのだ。死ぬまで。
その他にも、プライドやら自信やら権威やらブランドやら……
舞台上で交わされる言葉は、普段わたしたちが何気なくつかっている言葉だ。でも、その言葉がこれだけ、残酷にも、えげつなくもなるということに驚いた。
特に、多く出てくる
「あなたの気持ちはわかる」
という言葉に、憤りとやるせなさを感じた。
簡単に出してしまいがちな言葉。でも、本当は簡単に出してはいけない言葉であるということを昨年の北海道の震災の時に、わたしは実感した。
この舞台上で、「わかる」という言葉を発する人物は、一番わかっていない人だ。
とはいえ、言葉の発し方は強くはなくむしろ、抑えている。
動く目線、息をのむ、吐く。
その様子が、リアルすぎておそろしい。ああ、本当にある教室のことなのかと。
いじめという題材でありながら、もっともっと他のことも考えさせられる。
考えるための劇だと思う。
まだ、生きて十数年の中高生たちはこの歪みをどう演じるのだろう。
たのしみだ。
2019年2月15日 14:00 於:コンカリーニョ
text by わたなべひろみ(ひよひよ)